100歳まで生きると考える

僕達は、日々言い訳で生きているとも言えるのでは無いでしょうか。
何も、これは意地悪な見方という事ではなく、意識の中では僕たちは、毎日毎日、自問自答の中で回答したり言い訳をしている。 そこに、思考のパターンや前提が有り、自分なりの納得があるのだと思います。

しかし、この自己納得の世界が、いかに通俗的な不確さを前提としているかは、よくよく考えた方がよいのではないかと思える時もあります。 僕達はこの不確かな前提を確かめもせず鵜呑みにしているだけだとしたら、多くの可能性を自ら捨てていることになるのです。

毎日毎日自分の中で繰り返されている自己納得の為の自己説得は自分の中に呪文となり、知らず識らずのうちに血となり肉となり自分を作っていくわけです。
しかも、不確かな考えを前提として不確かな自分を作っていることになりかねないとしたら。

人生60年、70年。

遠いい道のり

人生60年、70年とは、誰が言ったのでしょう。
統計が語っている?何を語っているのでしょう?
「現実的ゴールを見据えて現在をよく考えろ」と!?
でも、ゴールを仮に70年と設定してしまったとして、70年を過ぎたらどうしますか?

それだったら僕は、100歳までは最低生きると考えて今日を生きます。

それで何が変わるのでしょう。
基準を移動させることにより、世界の見え方が変わり心模様が一変します。
つまり、《今》が変わるのです。
ターゲットを見つめる《今》が変わるのです。
具体的には、時間の流れの感じ方が変わります。 行動の見方が丁寧にないます。 何故なら、ターゲットは長いスパーンでより精密なものを要求しているからです。
その時僕達は、この基準の設け方にいかに支配されているかを知ることが出来ます。

だから逆に、僕達は意図的にあるいは計画的に基準を移動して、自分にとって今までとは違った最適な位置、すなわち今を見出すことは、新しい自分に出会える素晴らしいチャレンジなのです。言い訳の基準を変えるのです。僕たちは、それを使わない手は無いのです。